12|21
12月21日、弟たちの子供が産まれた。
弟は今日(12/21)が何の日なのか調べながら、子供の名前をどうしようか考えているようだった。
12/21は回文の日だそうだ。
だから、兄としては、岩田スピッツ がいいんじゃない?と提案した。
スピッツに『名前をつけてやる』という曲があるので、弟に教えた。
最近、夜ごはんをみんなで食べていると、やっと純粋に「楽しい」と感じられるようになってきていることに気づいた。
誰かが何かを言って、それに誰かがふざけてツッコミをいれたりして、笑って、かぶせて、笑って、楽しい。
嫌でも働くのは生きるためだから仕方ない、と、辛い時期の自分に言い聞かせて、自分で選んだ事に対して後悔している自分を肯定するように、自分の「感覚に向き合う」事を遠ざけている時があった。
今はしたい事を選べばそれができるし、その現状を背景に、みんなと楽しく過ごす事が出来ている。それを実感している。
陰と陽。じめっとした自分の性格と、山陰の性格をマッチさせて、このネガティブとされる性質を良いものとして肯定できたらな。
まだまだ、前向きな気持ちで取り組めば、きっと悪い事にはならないと信じている。少しづつ、挑戦するようにして、自分を変えていきたい。
何か節目の様なタイミングには、海に行くことにしよう。
春夏秋冬、海はいつでもそこで波打っている
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赤崎の海へ行った。
丸い石だらけの海だった。
自分の事だけで尖っていても、他人と折り合いをつけるのは難しい。
環境に慣らされて、他人に慣らされて、だんだん丸くなっていくのは、自然な事なんだな、と思った。
『楕円の夢』ばかり聴いていて、どうして新しい命である「卵」は球体じゃないんだろうって思ってた。
なるべくまん丸の石を見つけようと思った。どこまでも転がっていけるようにまん丸の。
丸まった石の上を、どこまでも行けるところまで歩いた。
今日で終わりではないよ。
だらだらじんせい
一瞬で気持ちは変化する
今日はあかりちゃん(6歳)と海へ行った。砂浜を降りていって寄せたり引いたりする波打ち際で、足に波が来るたびにきゃーきゃーいって遊んだ。
夜、一階の店舗は閉店時間特になしのお店としてオープンする。
そこに来た知り合いと話したり、一緒に住んでる仲間と2人で話したり。
一対一で話してると、とても意味のある会話をしているような気分になっていた。
でも、彼はよその話にも耳を傾けていて、そっちの話に違う仲間の話題が出ていることを聞いていて、「彼の名誉のためにいうと…」と、その場で話に参加していった。その話は俺の全く知らない、知っている人との関わりについての話だった。
初めて会う人と積極的に話そうという気持ちになかなかなれず、だけど、自分を知ろうとしてくれる人に対しても、自分が何かできるわけでもなく、人に大目に見てもらいながら生きているだけなのかもしれないな、っていう気持ちになる時がある。
一人で生きて行くことができるようにならないといけない。
そのためにはきっと、苦手な事でもできるようにならないといけない事があるのかもしれない。
「自活できるやつに来てもらいたいですよね」と言っていた友達のセリフを必要以上にずっと気にしている。
自分に向けられた言葉でもあったのではないかな、と。
いま、いろんな事が順調に流れているような気がしている。
だけど、それは自分の努力のために維持されている事では無いような気もしている。
周りの人の理解や、優しさに寄りかかっているだけなのかもしれない。と。
自分に何かできるのか。
自分は誰かに必要とされてここにいるのだろうか。
そんな時甘えたり、寄りかかってもいいよ、と言ってくれる人が、今の自分にはいるのだろうか。不安になった。
東京では、たくさんの他人の隙間に、ギュッとされて生きていた
鳥取では、たくさんの温かい人たちに囲まれてふっくらと生きている
東京から逃げ出して来たんじゃないのかな俺は
あかりちゃんに [だらだら人生]というあだ名をつけられた
意味わからないけど、不思議とハマっている気がする
あかり「人生終わった事ある?」
じぶん「え?ないよー。人生終わった事はないでしょー」
あかり「あかりはあるよ。10回あるよ。いや、100回以上あるよ!」
でも、本当は俺も10回くらい人生終わったようなタイミングで、現実をリセットするように逃げて来たと思う
だらだらじんせいはこれからどうなっていくんだろうね。
大切な人を大切にできるようになりたい
見なくても音で感じる雨
もしかしたら何をやってもどこにいても誰といても自分はダメなのかもしれない
最近になってたまに夢にでてくる
夜歩いてると偶然でいいからって思う
知らなくていい知ってる人の知らない今がいいものであればそれでいいと思って知らないでいる
徒歩10分の場所にあるパラレルワールド
うちそと
http://www.webdice.jp/dice/detail/5388/
この記事でなんかのスイッチが入って、いろいろあふれてきた。
一般的目線と専門的目線
外見と中身
(「そとみ」とかいて「がいけん」か!)
おもえば建築の人たちは、外見の綺麗さのために中身を考える人たちであった。外見を一番にするステイトメントの人間たちだった。
だから人に対しても、「自分は間違ってないアピール」がひどかった。自分を綺麗に見せたい感に覆われていた。
現場に行って、打ち合わせを終えて、ひと段落ついて、帰るまでの数分間、現場を自由にみまわれて「途中の状態」をみれるのが唯一、楽しい時間だった。
反対側
仕事の帰りに2駅前から歩いて、いたら、道に迷ってしまった。
マップをみたら、随分北のほうへきていた。
ここを曲がれば、はらっぱ公園にでるから、大丈夫か、と思って歩いていった。
公園を抜けて、駅のほうへまっすぐ歩いていく。今ごろどうしてるのかな。楽しく過ごしているのかな。
下から1、2、3、4、、、と数えると、まっくらだった。
すれちがう人はみんな知らない人だった。
都合よく偶然なんて起こらない。
俺にはこの先、これからバチが当たると思うから、安心してください。
何も言わないのが1番いい事だって思ってます。
もう少しちゃんとできてればな。