自書
昔から、何かひらめいたり、「あ、そっか!」と思う事はシャワーを浴びているときが多い。
なんでかな。人間みんなそうだろうか。違う気がするけど。
須藤元氣さんは、書道をならっていたことがあるらしく、
ある雨の日、書道に行こうかどうか迷っていた時に、友人からご飯の誘いがあり、
「おいしい焼き鳥を食べに行こう」といわれ、
迷わず行く事にしたそうです。
で、いってみたら、そのやきとりやさんは、通っている書道教室の目の前のお店だったそうです。それで、須藤元氣さんは書道に行く事に決めて、友達にはその間時間をつぶしていてもらった、という。
その出来事に、シンクロニシティ(偶然のような一致)を感じたんだって。
そーいう偶然みたいな一致を、大事な出来事だととらえられるかどうか、
ていうのは、その人のスタンスのとりかたとか、その人の魅力とかに
大きく影響すると思う。
専門のときの先生、福島加津也先生は、「例え」を使った説得力がとてもある先生でした。
この先生にであっただけでも、もいちど学校に入ってよかった、と思えるくらい好きな先生だけど、この、「例え」ていうのは、シンクロニシティを言葉として保存しておく行為なのかもしれないな、と思った。
言葉と言葉との、響きや、意味が、何かの出来事とかさなったりする時に、
「びびび!」というものを強く感じるタイプなんだけど、
そーいうことっていうのは、普段の生活の中にいっぱいある。
ほんとうはその都度かきとめておきたいんだけど、「きっと覚えてるから大丈夫」とおもってるうちに知らずに忘れてしまっている事だらけだとおもう。
物をかったり、何かをきめたり、なにか好きになったりする時って、
「いい!」と思う要素が2つ以上あるときとかなんじゃないかな、というのは、自然と感じたことなんだけど、その「いい!」を、自分の中でどれくらい感じて、「買おう」「やろう」「好き」ってなるかは、人それぞれで、自分は結構「いい!」の要素をいっぱいあつめてからじゃないとなかなか「よし!」とはならないようだ。
本を買うのだって、コンビニにいくのだって、「ここ!」ときめたところで買いたい。
西荻には今野書店と、颯爽堂があるけど、どちらもあまり好きではない。
だけど、仕事帰りに書店に行くと、つい本は欲しくなってしまう。
どこで買うか、よりも、本は出会いだ、という気持ちの方が若干強いのか、
颯爽堂だけど、いいか。となる。
だけど今日颯爽堂で本を買って後悔した。
コンビニでも、嫌ーな気持ちになった。
自分の様子が悪いのかな?いつもよりフラットな気持ちでいたんだけどな。
自分で自分を形成して行く事は、自分の辞書をつくる事だと思う。
自分にとって“○○”は「〜〜」である、という自分なりの認識をしながら毎日、新しいものや、出来事を経験して生きている。
昔から思っていた事ではあるけども。
本当に自分なりの辞書をつくりたいと思っていて、「わかった!」と思うたびに項目を作ってノートにかいていた。
【人間】
空がきれいだと思える事
水がおいしいと感じる事
異質なものにかこまれて生活していても
そういう部分が細い糸のように
自然と人間をつないでいる
(2008/6/16)
パソコンやコードなどを人間の脳や血管に例えたりした。
それをもっと細かくして、コードのビニール、中の銅線、プラスチック、すべて人間がうみだした地球上の物質をもとにした産物。
人間の脳や血管も地球上の物質をもとにした産物。
(2008/ / )
コーヒーは薫りだという
人間もコーヒーのようであればいいのに
(2008/7/21)
あと、街/電車/盆栽/探し物/雨/箱根茶屋...など
23項目。