赤信号について
やたら自暴自棄になったあと、バカは自分だなとおもって、そのあと、自分は自分が思っている以上に、危ない系の人なのかもしれないと思ったあと、大森達嗣監督の『坊ちゃん』のような人と比べてどうか、と考えた。
自殺する人とか、人を殺す人とか、って、「人間」ってモノがいいものなはずだ、とおもいすぎてるのかもしれないな、と思った。
うまく生きて行けてる人ほど、ちっちゃいズルとか、ちょっとずうずうしい。
それを徐々に徐々にバレないようにうまく、自然にうつるようにとっさに、できるようにしている。白々しい。
その変な波長のゆがみの影響を受けてしまうような人たちには、そういったもののストレスみたいなやつがちょっとずつ、ちょっとずつ蓄積されていくんだとおもう。
歩いていて、赤信号はどうするか。
車が通っていない赤信号をどうするか。
わたっていいだろ。
ダメな場合あるか?
と考えた時に、小学生くらいの子供を連れた親子がいたらどうだろうかと思って、
「あの人は赤なのにわたってるよ?」
って子供が言ったら、親は説明に困るだろうな
と思って
子供連れがいるときは、赤は必ず待とうと思った。
でも、少し前からそれはやめた。
「車がとおっていないなら、赤信号を守る必要が無い」
という事を、親が子供にいってもいいと思ったからだ。
でも、宗教の信仰のある人たちは、車がとおっていなくても赤信号は待つだろう
「決まりだから」だ。
神が「〇〇〇〇」と言った、というだけで守ることに理由はない。
宗教の信仰がある人が、信仰の無い人に信仰の必要性を説得するのと、
信仰の無い人が、宗教の信仰のある人に信仰の必要がないことを説得するのとでは、
どちらのほうが説得できるだろうか
自分は宗教の勧誘の人に信仰の必要の無さを説得できるとおもっている。