アイデア生誕の地
便利になったからこそ、モノの数で解決させず、身の回りに置くものは自分で判断して、少しのもので対応させたい。
だけど、無駄を無くす、とか、整理整頓、とかを意識しすぎると、
夕焼けのグラデーションのように、実体のない光の粒の集まりみたいな、自然の魅力とは違う、モニタのディスプレイ表示のように、近くて遠いモノになってしまいそう。
あと、イマジネーションから出てくる言葉を文章にするには、こーいうデジタルな表記方法はやりずらい。
紙に書いて置く方がいいみたい。
ウィンウィンの関係が良いとか、よく知らないけど、プラスのモノをさらにプラスにしようとするモチベーションも、マイナスをせめてゼロにしたいと思うモチベーションも、下から上を向いていく方向だけど、どっちのモチベーションの方が強いかとかは、置いて置くにしても、現状の立ち位置が近いもの同士が支え合うのだと思う。
相談をするのも、されるのも、お互いを支え合う関係だと思う。
作品を作るのも、作品を観るのも、同じ。
「万能を求める社会の網」に引っかからなかった破片のようなモノたちや、人たちと一緒にいられたらいいな
今、目に映ってる三次元空間を、張り紙のように、角を爪で剥がして、ベリッとすると、その裏面にぴったりと余(よ)次元空間のパラレルワールドがある。
そこには、三次元で表せない、イマジネーションの余次元世界があって、三次元空間での物理現象のしくみのように、形のない現象のしくみがある。
たまに起こる偶然とか、運命なんじゃないか、と感じるような、見えない線で繋がれているような出来事は、余次元世界での当たり前の出来事なのかもしれない
もう少しうまくいいたい…